ロシア菓子を作ったのがきっかけで
改めて亡命ロシア人について興味がわいてきました。
ネットで調べたり家族に聞いたりしてみたのを
自分なりにまとめてみました。
以下、いつもより長いので、ご興味ありましたら。
1917年のロシア革命による帝政崩壊によって、
多くの知識人や技術者、貴族、帝政支持の市民が
世界各国へ逃れました。(1921年までに約200万人ほど)
正確な数字は不明ですが、そのうち日本には革命直後は5千人~1万人滞在していたそうです。(大正時代頃にあたり、その当時外国人といえばロシア人というほど)亡命ロシア人として有名なところでは、お菓子関係で、モロゾフやゴンチャロフなど。ネットで検索すると結構でてきますよ。軽井沢は明治時代にカナダ人宣教師の紹介により外国人避暑地として発展したこともあり、亡命ロシア人が滞在したようです。母がお菓子を教わったニーナさんは、函館を経由して軽井沢へ。同じく亡命ロシア人のプレドーさんと軽井沢で出会い、夫婦に。(プレドーさんはロシアからアメリカに渡り、その後横浜で貿易商をして、軽井沢へ)このご夫婦が実家の近所に住んでいて交流があり、母がお菓子や料理を教えてもらっていました。右の男性がプレドーさん、真ん中の白髪の女性がニーナさん、左が母です。左の後ろ姿がプレドーさん、
右の男性が今は亡き父です。
1984年頃、父と母が37歳ごろの写真です。
お店も八百屋とジャム屋を両方していた前の店舗。
私も小学生のころ、ご夫婦の家にお届けものをして、 お菓子をもらったりしていました。
あと、実家「ジャムこばやし」のジャムは、
別の亡命ロシア人のルダコフさんという女性に
祖母が製法を教わったのが始まりです。
ルダコフさんも函館経由で軽井沢に来たようで、
日本の亡命ロシア人を研究した文献に
ルダコフさんの名前が出てきます。
(写真は実家「ジャムこばやし」の1949年創業当時の店舗。 青果店として始まり、残念ながら30年ほど前やむなく
青果店としての営業を終え、ジャム専門店へ。
1枚目の中央が祖母と叔母。
左の外国人女性は亡命ロシア人の方ではありません。)
長くなりましたが、
お付き合いいただき、ありがとうございます!